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「日本」という国号の成立時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられている。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。倭国も、それまでの遣隋使をあらためた遣唐使を送って、唐との外交関係を深めていた<ref>第1回遣唐使は、舒明天皇2年(630年)に犬上御田鍬を大使として送られた。</ref>。朝鮮半島では、唐との連携を強めた新羅が急伸し、663年には唐・新羅連合軍と百済・倭国連合軍との間で白村江の戦いが起きた。この戦いに敗北した百済は滅亡し、倭国は国内統治体制と防衛体制の整備を推進した。その後、672年に起きた壬申の乱を経て、強い権力を握った天武天皇は、天皇中心の国制構築をさらに進めた。それは主として律令制の導入という形で進められ、689年に頒布された飛鳥浄御原令に始まり、701年(大宝元年)の大宝律令成立で一応完成した。
このような国際・国内状況の中で「日本」号は成立したが、具体的に成立時点を特定した史料はない。ただ、成立時点を推定する見解は、二説に絞られている。まず一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)において成立したとする説である<ref>熊谷公男 『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社、2001年)、吉田孝 『日本誕生』(岩波新書、1997年)、など。</ref>。これは、天武天皇の治世において成立したと解されている「天皇」号と同時期に「日本」号も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年に頒布された飛鳥浄御原令において「天皇」号と「日本」号が定められたと推測する<ref>吉田孝 『日本の誕生』(岩波新書、1997年)。</ref><ref>なお、天武天皇は、飛鳥浄御原令が成立する以前の686年に没している。</ref>。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立前後に「日本」号が成立したとする説である<ref>神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005年)など。</ref>。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式において「日本」号が定められたとしている<ref>神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005年)</ref>。なお、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、これは後に定められた大宝律令公式令を元にして、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと今日では考えられている<ref>古田東朔「国号」節(「日本」項、『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990年)</ref>。
内工事現場で発見されたと、2004年(平成16年)10月に発表された。</ref>。
『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は』諸本においても、中国の視点により名付けられたとする説が採られている<ref>神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、ゆえに日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。</ref>。
なお、『隋書』巻八十一列傅第四十六「東夷 倭国」に倭王(『隋書』は倭を全て「俀」と記載している)の多利思北孤から隋皇帝煬帝への国書に「日出處天子」と自称したとあり、このときの「日出處」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、仏典『大智度論』に「日出處」は東方の別表現である旨の記述があるため、現在では「日出處」は単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立とは無関係と考えられている<ref>東野治之『遣唐使と正倉院』(岩波書店、1992年)や神野志前掲書など。</ref>。