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興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)と言われている。しかし、浪人集団との結びつきが強いという理由で、1648年(正保4年)には幕府によって江戸における辻相撲禁止令が出された。その後、1684年(天和4年)、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立が条件とされて、相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。この時の興行は江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。このとき、寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代の間、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われた。本所の回向院での開催が定着したのは、1833年(天保4年)のことである。
『相撲傳書』によるとこの頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7~9m(4~5間)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。寛文年間(17世紀半ば)には格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に延宝年間(1670年頃)に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13尺)の丸い土俵が設けられた。享保年間(18世紀始め)に俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年(宝暦7年)のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある(日下公人「あと三年で、世界は江戸になる」ビジネス社、p.74)。
しかし江戸相撲は、1789年(寛政元年11月)、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年(寛政3年6月11日)上覧相撲を成功させる<ref>*「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって </ref>。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。
1827年(文政10年)、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。
幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年(嘉永6年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。
1863年(文久3年6月3日)、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こしたのは大阪相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となったものもいた。