ランキングモンスター

大相撲-東西制と系統別総当たり制について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
3.番付と取組
3.2.東西制と系統別総当たり制

番付には、東と西という区別がある。江戸時代から明治時代にかけては、東と西とは分けられており、番付の昇降も東西それぞれで行われ、東西の同じ側同士の対戦はなかった。また、東と西との2枚の番付を作っていた大坂相撲とは違って、東西を1枚にまとめた江戸相撲では、東が右側に配置されていたが、最初は東西の間に優劣はなかった。

1890年(明治23年)5月に、横綱免許を受けていた大関・初代西ノ海嘉治郎張出大関にさせられることに抗議した結果、番付上に初めて〈横綱〉が明記されたとき、東に張り出されたことから、横綱を東方におくようになったことで、東が優位という印象が明確になっていった。

1909年(明治42年)の夏場所に、国技館が開館したときに、幕内に団体優勝制度ができた。番付の東と西とで対抗戦をして、勝ち星の多いほうに優勝旗を授与し、翌場所の番付を東に配置することにしたのである。これを東西制と呼んだ。優勝旗は勝った側の関脇以下の幕内力士のうち最優秀の成績をあげた者が優勝旗手の栄誉を得ることと決められた。これは好評を呼び、当時の好角家の間でも、〈出羽海びいき〉〈連合(非出羽方)びいき〉という区別もできた。ただし、東西の戦力バランスの関係や、横綱が片方に偏らないように、ときどき東西の組み替えも行われた。

なお、このシステムは幕内だけで、十両以下に関しては系統別総当たり制で東西の区別もなかった。

1932年(昭和7年)の春秋園事件の結果、脱退者が多く、幕内力士の人数が少なくなったために、春場所から東西制を中止し、一門による系統別総当たり制を幕内でも実施するようになった。しかし、出羽海部屋の幕内力士が増加し、公平な取組をつくることが難しくなったので、1940年(昭和15年)1月場所から、ふたたび東西制にもどし、団体優勝と旗手の制度を復活させた。しかし、それでも東西のバランスをとることはむずかしく、配置換えも何度もおこなわれ、伊勢ヶ濱部屋朝日山部屋の力士が東西に振り分けられることさえあった。(もちろん同部屋の力士同士の対戦はなかった)

戦後、大相撲の人気回復のために、優勝決定戦三賞制度を導入すると同時に、取組の多様化を進めるために、1947年(昭和22年)11月場所から、系統別総当たり制に戻した。しかし、立浪部屋時津風部屋が一門としては別なのに、師匠同士が兄弟弟子(羽黒山政司双葉山)というだけの関係で対戦がないことや、二所ノ関一門が次々と分離独立していったことから、再び取組が硬直化して不公平感が生じてきたので、1965年(昭和40年)1月場所から、完全な部屋別総当たり制を実施し、現在に至っている。

平成時代初期に、二子山部屋武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中したことから、個人別総当たり制が話題になったこともあったが、養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりから考えると、個人別総当たり制の実現は今後もまず不可能であると考えられる。

(出典:Wikipedia)

ランキングモンスタートップ大相撲>東西制と系統別総当たり制

大相撲を検索
大相撲のブログを検索
大相撲の動画を検索
大相撲の画像を検索
大相撲の書籍を検索
大相撲の音楽を検索
大相撲のDVDを検索
人気の音楽・映画・コミックのランキングランキング★モンスターでチェック!